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ディズニーのテーマパークは、世界各国にありますが、そのすべてが直営か、ディズニーの資本が入った会社によって運営されています。でも、東京ディズニーリゾートは、世界でただひとつ、ディズニー社とフランチャイズ契約しているテーマパークです。しかも、東京ディズニーランドは、ディズニーランド初の海外進出先でもあります。
なぜ、日本だけが特別になりえたのか、とても興味深いですよね。そこには、ディズニーランドの誘致を夢見た人たちの、至極のストーリーがありました。
東京ディズニーリゾートを運営しているのは、皆さんご存知、オリエンタルランドです。もちろん、ディズニーからの出資は一切ありません。
総面積260万坪の浦安の土地を、埋め立てて開発したオリエンタルランドの巨大プロジェクト。
驚くべきことに、会社設立当初、ディズニーランドを誘致する話は、まったくなかったそうです。誘致の見込みありきで、プロジェクトが進行していたと思い込んでいた筆者は、この事実には驚かされました。しかも、会社設立から開園までなんと23年、とんでもない月日を要していたのです。
まずは、こちらの動画をご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=QrustEw9KT4
1950年代、千葉県浦安は、のりの養殖が盛んな漁業の町でした。しかし、水質汚染で漁業が立ち行かなくなり、埋め立て地として、レジャー施設の建設計画が持ち上がったのです。そこに名乗りを上げたのが、京成電鉄と三井不動産が共同出資したオリエンタルランドでした。
この交渉は困難を極めました。血気盛んな漁民との交渉にあたったのが、二代目社長の高橋政知さんでした。
高橋さんの交渉術は、実に凄まじいものでした。漁業組合幹部と連日連夜の接待漬け。こうしたマンツーマンの説得工作が功を奏し、漁民の同意をなんとか取り付け、予定よりも早く千葉県との協定書を結ぶことができました。
しかし、その協定書には、さまざまな制約が付けれていたのです。
これは、なかなかの難題です。オリエンタルランドは、この制約を満たすパイロットプランを早急に作る必要がありました。当初は、外部コンサルタントに依頼してましたが、県との協定を満たすことができず、事業の採算も見込めないプランでした。
このままでは拉致があかないということで、白羽の矢を立てたのが、堀貞一郎さんでした。
堀プロデューサーは、テレビ業界創成期にたくさんの番組を手がけたテレビ・プロデューサーであり、大阪万博のパビリオンの企画も行なった人物です。
堀さんは、取締役就任後すぐに、パイロットプランの見直しにかかりました。この埋立地に対する国や県の要請に対応するためには、小手先の経営計画では足りず、大胆な発想の転換が求められました。何よりも、オリエンタルランドそのものに、確固たる経営理念、さらにそれに基づく長期的な戦略が必要なことに、気付いていたのです。
最終的に、基本コンセプトを「喜びと感動を覚えられる場所」に決定。この実現のために、「ディズニーランドを誘致するしかない」という結論にたどり着いたのです。
もし、堀さんの決断がいなければ、浦安はディズニーランドではなく、単なる遊園地になっていたかもしれません。
当時、ディズニーにはすでに21ヵ国から熱烈なオファーがあり、後発のオリエンタルランドは、誰の目から見ても不利な状況でした。
また、1961年に開業した奈良ドリームランドが、ディズニーランドをモロパクリしたテーマパークを建設したため、日本に対するイメージは、最悪もいいとこでした。(ちなみに、奈良ドリームランドは2006年8月に閉園しています。)
それに加え、イメージを重視するディズニー社は、住民の反対運動や環境破壊に神経質になっており、初の海外展開にとても慎重になっていました。
堀さんは、ディズニー社が海外進出に向け、具体的に動けていないことに気づきます。人脈を駆使して調査してみると、各国からのオファーにはマーケティング・プランがなかったために、結果として前に進めていないという事実がわかってきたのです。
当たり前ですが、地理的環境が詳しくないディズニー社が、すべてのオファーをいちいち調査できるはずがありません。そこに目をつけた堀さんは、一手講じます。ディズニー社の首脳陣の目をひきつけ、他社と差別化をするために、詳細なマーケティング・レポートの作成に着手したのです。
相手が喜ぶ情報をふんだんに盛り込み、何度も何度も手直しを加え、相手が調べることがないほどまでに、レポートを作り込んでいったのです。
レポート提出から6ケ月後、チャンスは突然訪れます。ディズニーが、ライバルの三菱地所が誘致する富士山麓を視察するついでに、浦安を見に来ることになったのです。千載一遇のチャンスでした。
周到に準備したプレゼンテーションでは、長期的な日本市場価値の有望性、開発予定地が日本の中心である東京エリアの一角に位置する点を協調しました。それを裏付けるために、開発用地を上空からヘリコプターで視察。首都圏に隣接している適性や特徴をショーアップして演出したのです。本家ディズニーのお株を奪う最大のおもてなし。まさに、エンターテイメントです。
「あなた方は我々が何を知りたいかをよく知っていて、最高のプレゼンテーションをしてくれました。もう質問はありません。」
2日後の12月6日の会談で、ディズニー社のテイタム会長は「オリエンタルランドの情熱は非常によくわかった。ただちに提携の了解をしたいから、富士山麓の計画を断って欲しい」と言って、その場で誘致決定の決断を下しました。日数にしてわずか3日の出来事でした。
最終契約、ディズニー社は「国外ではディズニーランドは受け入れられないのではないか」という不安を拭い去ることができませんでした。初の海外進出ということもあったと思います。だから、もし失敗しても多額の損失が発生しないように、売上に対してのロイヤリティを受け取る、いわゆる、フランチャイズ形式を選択したのです。
ディズニーランドが、浦安に誕生した瞬間です。
フタを開けてみると、ディズニー社の予想は大きくハズレます。きめ細やかなサービス、ホスピタリティの高さで、初年度にして990万人が来場。オリエンタルランドは大成功を収めたのです。しかも、ディズニー社にとって、日本人のおみやげ文化も予想外。チケット料金と比べて、グッズなどの物販に対するロイヤリティを低く設定したことが、完全に裏目に出てしまいました。
開園10周年の記念式典で、当時のディズニー社CEOマイケル・アイズナーさんは、「史上最大の失敗」と冗談交じりに語っています。
ディズニーランドの日本誘致の発案者は、当時の京成電鉄社長であり、オリエンタルランド初代社長の川崎千春さんです。高橋さんは、ディズニーランドにはこれっぽっちも興味がなく、「埋立地には女子供が遊ぶディズニーランドなんかより、競馬場をつくったほうがカネになる」と主張していたそうです。これは、面白いですよね。
海外の文化と日本の文化を見事に融合させたオリエンタルランド。そこには、ディズニーランドを誘致するために尽力した先人のDNAが脈々と受け継がれています。テーマパークを楽しむのも良いと思いますが、夢に奔走した人たちにおもいを馳せてみるのも、オツではないでしょうか。
次は、「ウォルト亡き後のディズニー社の救世主マイケル・アイズナー」をご覧下さいませ(๑˃̵ᴗ˂̵)و テヘペロ
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