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2020年1月25日、ロサンゼルス・レイカーズのレブロン・ジェームズは、通算得点でコービー・ブライアント(3万3,643得点)を抜いて歴代3位に浮上しました。
レブロン・ジェームズが通算得点でコービー・ブライアント超え、歴代3位に浮上 #NBA #NBAjphttps://t.co/AzUu1rcRc7
— NBA Japan (@NBAJPN) January 26, 2020
この偉大な記録に、アメリカのみならず、世界中が歓喜の渦に巻き込まれました。試合後、レブロン・ジェームズは、感情深げにこのように語っています。
「15、6歳の頃に参加したバスケットボールキャンプにコービーが来てくれて、
どんなことでも優れた存在になりたければ努力する必要があると教えられた」
この発言に応えるカタチで、コービーは、レブロンへの敬意をTwitterで表明しました。
https://twitter.com/kobebryant/status/1221276426164269056
(※「@KingJames」は、レブロンの愛称&アカウント名で、「#33644」はコービーの記録を破ったレブロンの得点数です。)
このツイートの15時間後、まさかの事態が起こります。なんと、コービーが乗っていたへリコプターが墜落し、帰らぬ人に…。
レブロンへの賛辞が、奇しくも人生最後のツイートとなったのです。
さて今回は、NBA屈指の大スターコービー・ブライアントの数奇な運命について、探っていきたいと思います。
筆者がコービーの訃報を知ったのは、バスケサークルのLINEグループでの通知です。あまりのショックに事態を飲み込むことができませんでした。それは、サークルメンバーも同じ。早朝にも関わらず、LINEグループは大いに盛り上がるとともに、大きな悲しみに打ちひしがれました。
と言っても、コービーをご存知ない方もいるかもしれないので、簡単にご紹介させていただきますね。
コービーを一言で説明するなら、「究極の負けず嫌い」と言えます。とにかく勝利への情熱がハンパありません。あまりにも情熱が強すぎて、自己中心的として見られることも多くありました。そのため、アンチ・コービーもたくさんいます。ニックネームは、ブラック・マンバ(アフリカに生息する世界一獰猛な毒蛇)。狙った獲物は逃がさない、コービーぴったりのニックネームですよね。
コービーの功績を振り返ってみると、獲得したタイトルの多さに驚かされます。ロサンゼルス・レイカーズを5度の優勝に導き、2008年にはシーズンMVP、その翌シーズンから2年連続でファイナルMVPを獲得しています。
さらに、得点王に2回、年間最多得点を4回も獲得しています。その他にも、2008年北京オリンピック、2012年ロンドンオリンピックにアメリカ代表のエースとして出場し、両オリンピックで金メダルを獲得しています。ちなみに、コービーが出た国際試合は31戦無敗です。
コービー・ブライアントは、記憶と記録に残した、スーパースター中のスーパースターなのです。
バスケットボールの神様マイケル ジョーダンに憧れ、プレーを徹底的に真似て、ネクストジョーダンとも呼ばれたコービー・ブライアント。コービーは、NBA歴代屈指のスコアラーとして、現役時代に得点を量産していきました。
負けず嫌いな性格と他を圧倒するプレイスタイルは、ジョーダンと見紛うほどです。まさに、マンガ「黒子のバスケ」の黄瀬涼太ばりのパーフェクト・コピーと言っても過言ではありません。
コービーの実力は、ジョーダン本人から「1on1でコービーには負けるかも」と言わしめたほどです。また、クラッチタイムにめっぽう強いコービーは、恩師であるフィル・ジャクソンから、「最も重要な場面では、ジョーダンよりコービーにシュートを任せる」と言われています。圧倒的な信頼感ですよね。
2014年12月14日、コービーがついにジョーダンを超える瞬間がやってきます。 ミネソタ・ティンバーウルブズ戦で、ジョーダンが持つ3万2,292得点という記録を破ることになりました。コービーは、そこからさらに得点を伸ばし、通算3万3,643得点(歴代4位)でキャリアを終えました。
ジョーダンなきNBAを支えたスーパースターであり、20年に渡ってレイカーズ一筋でプレイし続けてきた偉大なるプレイヤーが、コービーなのです。
破壊力抜群の巨大センターのシャキール・オニールと、個人技で魅了するコービー・ブライアント。この名コンビは、レイカーズを2000~2002年にスリーピート(3年連続優勝)へと導きました。当時、シカゴ・ブルズのマイケル・ジョーダンとスコッティ・ピッペン以来の最強コンビとして、NBAに君臨していました。
しかし、2人を囲む話題といえば、もっぱらお互いの仲の悪さでした。既にNBAで絶対的な地位を確立してレイカーズに移籍してきたシャックと、高校卒業間もないルーキーのコービー。この2人はチームメイトになった瞬間から、全く反りが合いませんでした。
こんな状態で、よく3回も優勝できたもんだなぁと、今さらながら感心させられます。フィル・ジャクソンHCもさぞかし、大変だったと思います。
2012年8月、3度の優勝を果たした名コンビも、解散することになります。レイカーズは、キャリア終盤のシャックをマイアミ・ヒートへトレードし、若きコービーにチームを託したのです。
その後、マイアミ・ヒートに移籍したシャックは、ドウェイン・ウェイドと共に2006年のファイナルを制し、4つのチャンピオン・カップを獲得しました。一方のコービーは2009年と2010年にタイトルを獲得して通算5回の優勝を果たしました。
インタビューで5回目の優勝の意味を問われたコービーは、「シャックより一つ多いというだけさ」と答えています。この返答も、コービーらしい負けん気の強さが前面に表れていますね(笑)。
コービー・ブライアントとレブロン・ジェームズは、特別な絆で結ばれています。
レブロンが高校を卒業した2年後の2005年、NBAの労使協定では、ドラフトの条件を「19歳以上で高校を卒業してから1年間以上経過した者」と規定。そのため、レブロンは高校からNBAに入った最後の選手となります。
ちなみに、コービーも、高校生だった17歳のときにNBA入りしています。二人とも高卒ルーキーということで、何か近いものを感じていたのかもしれません。
コービーが亡くなる前日、レブロンはセブンティシクサーズ戦で29得点を記録し、通算得点でコービーが残した3万3,643得点を抜いて歴代3位に浮上しました。この試合後、Twitterでレブロンを祝福するメッセージを送ったのが、コービーが公に残した最後の言葉となりました。
コービー事故死の翌日、レブロンは、Instagramにコービーとの画像を投稿しました。
「あなたが遺してくれたものを受け継ぐことを約束する。
あなたは僕たち全員にとって特別な存在で、
特にレイカーネーション全員にとってとても大きな存在だった。
この責任を背負い、これからも前進させるのは僕の役目だ。
どうか天国から力を与えてもらいたい。
そして、見守っていてほしい。一緒にやるんだ」
(※「レイカネーション」は、レイカーズの仲間のことです。)
コービーが、ジョーダンのようにカムバックし、レブロンとのゴールデンコンビを結成すると信じていた筆者としては、まだ事故のショックから立ち直ることができません。ただ、ジョーダンからコービーにつなげたNBAのバトンは、確実にレブロンに託された気がします。今後もNBAから目が離せません。
最後に、コービーの引退試合と引退後について、ご紹介したいと思います。
左アキレス腱の断裂や膝の負傷など、数々の怪我を克服し、レイカーズを5度の優勝に導いたコービー・ブライアント。NBAで20年間プレーし続けたコービーも、2015年11月ついに引退を決断します。肉体的な衰えが、引退の理由でした。
2016年4月、ユタ・ジャズと対戦した引退試合で、コービーはとんでもない記録を叩き出します。ゲーム終盤に得点ラッシュし、37歳にして1試合60得点を記録。これは、32歳で60得点をしたウィルト・チェンバレンの歴代最年長記録を更新した大記録でした。
また、試合自体も、残り2分10点ビハインドの状況から逆転し、チームを101-96の勝利へ導いたのです。コービーは、90秒あれば二桁の点差をひっくり返せるということを、引退試合で再現して見せたのです。
最後の最後まで、クラッチタイムでの圧倒的な支配力を印象付けた、まさに伝説の一戦でした。様々な功績を残してきたコービーでしたが、見事に有終の美を飾りました。完璧すぎるフィナーレは、バスケ漫画の最終回にしたら、できすぎて編集に怒られるレベルかもしれません(笑)。
コービー自身も、このように語っています。
「これ以上の物語は、どんな作家にも書けはしないでしょう?」
https://www.youtube.com/watch?v=Y_zrFAvfbOc
コービーの物語は、まだまだ終わりません。
コービーは、引退を決断した2015年に「Dear Basketball(親愛なるバスケットボール)」という詩を、「The Players’ Tribune」に寄稿しました。コービーに生きがいを与えてくれた、バスケットボールへの感謝を込めたメッセージです。
コービーは、このメッセージをアニメーション監督グレン・キーンと共に、数分間のショート・フィルムにしました。このショートフィルムを、レイカーズの永久欠番のセレモニーで公開。go90(英語版)によりオンライン配信すると、評判が評判を呼び、第90回アカデミー賞の短編アニメ賞を獲得。コービーは、NBA選手としては史上初のオスカー受賞者となったのです。
6才の時にレイカーズでプレイする夢を持ち、夢を実現して引退を迎えた後も、子供の頃と変わらずバスケットボールに対する愛情を持ち続けていたコービー。事故後に「Dear Basketball」を見返してみると、とても胸が締め付けられるものがありました。
「Dear Basketball」は、バスケットボールプレイヤーだけでなく、全ての挑戦者の背中を押してくれる作品です。コービーの生きざまは、きっといつまでも私たちの心に残り続けることでしょう。
コービーという名前は、コービーのお父さんが好きだった「Kobe Steak House(神戸牛ステーキハウス)」のKobeから取られたことは有名な話です。そのせいかおかげか、日本人にもコービー・ファンはたくさんいます。筆者もその一人です。
コービーの勝利を貪欲に掴みに行く姿勢と真摯な努力を、決して忘れることはありません。非常に残念ではありますが、どうか安らかにお眠りください。コービー、たくさんの感動をありがとう!!
続けて、こちらのコンテンツもご覧くださいませ(๑˃̵ᴗ˂̵)و テヘペロ
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