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自分だって「親の七光り」さえあれば、もっと〇〇できたのに…。
二世で活躍している人を見たとき、こんなおもいになったことありませんか?口に出すことはないと思いますが、誰もがこれに近い感情を持つことがある思います。
「親の七光り✨」
二代目社長にとって、これほど残酷な言葉はないでしょう。二代目は、二代目なりの苦労を背負って生きています。先代に比べ、創業者精神もバイタリティーも信頼もない。このようなコンプレックスを抱えているケースが少なくありません。
また、「親の七光り」と言われても言い返せない悔しさは、当事者にならなければわからないものです。
さて今回は、日本が誇るトヨタ自動車の豊田章男社長の苦悩について、探ってみたいと思います。
時価総額21兆6499億円(2020年4月10日現在)、2020年3月の連結決算売上見込み29兆5,000億円。グループ全体の年間世界販売は1,000万台以上。トヨタ自動車(TOYOTA, Toyota Mortor Corporation)は、名古屋いや日本が誇る世界的な企業であり、トップメーカーです。
ちなみに、創業家の性は”トヨダ”で、会社名は”トヨタ”です。元々、会社名は「TOYODA」表記でしたが、1936年の世界進出を期に変更されました。当時、ロゴの懸賞募集を行い、2万7,000点の中から選ばれたのが、上記右の「丸にトヨタ」を冠したロゴでした。姓名判断で8画は末広がりということで縁起が良く、愛知県の県庁所在地の名古屋市の支章が「八」だったことで採用されました。 また、豊田(トヨダ)という創業家から離れることにより、個人的企業から社会的存在への発展という意味も含まれています。
1933年、トヨタグループの創始者で豊田自動織機の創業者・豊田佐吉の長男・豊田喜一郎が、「日本が一流国になるためには自動車産業が必要だ」と豊田自動織機内に作った自動車製造部が起源です。エンジンはGM、シャーシはフォード、デザインはクライスラーから研究を重ね、1935年に自動車製造を開始。1937年には「トヨタ自動車工業」として独立を果たします。
過去のトヨタ自動車の社長の変遷は、以下のとおりです。
社長 | 名前 | 在任年数 |
初代社長 | 豊田 利三郎 | 1937~1941年 |
第2代社長(創業者・祖父) | 豊田 喜一郎 | 1941~1950年 |
第3代社長 | 石田 退三(たいぞう) | 1950~1961年 |
第4代社長 | 中川 不器男(ふきお) | 1961~1967年 |
第5代社長 | 豊田 英二 | 1967~1982年 |
第6代社長(父) | 豊田 章一郎 | 1982~1992年 |
第7代社長 | 豊田 達郎 | 1992~1995年 |
第8代社長 | 奥田 碩(ひろし) | 1995~1999年 |
第9代社長 | 張 富士夫(ふじお) | 1999~2005年 |
第10代社長 | 渡辺 捷昭(かつあき) | 2005~2009年 |
第11代社長(現) | 豊田 章男 | 2009~ |
トヨタ自動車の第11代社長を務めるのが、言わずと知れた豊田章男社長です。創業者である豊田喜一郎さんの孫であり、名誉会長豊田章一郎さんの息子である章男社長。正当な創業家の3代目であり、正真正銘の御曹司です。
傍から見れば何不自由なく育ったようにみえるかもしれません。しかし、御曹司は、御曹司ならではの苦悩があるのです。
章男社長は、メディアにも積極的に登場したり、テレビCM「トヨタイムズ」で俳優の香川照之さんと共演されたりしているので、ご存知の方も多いと思います。
元々は体育会系で、慶応義塾大学時代はホッケー部に所属し、日本代表に選出されるほどのアスリートだったそうです。「何事も、考える前に、まずやってみる」という体育会系のノリが、豊田章夫社長の持ち味の一つです。これは、上下関係の厳しいホッケー部で、培われた部分かもしれません。
また、「モリゾウ」という名前でカーレースも参加したりしています。父親の章一郎会長やスズキ自動車の修会長に、「危ないから…。」と何度注意されようが、一向に止めない頑固な一面も持ち合わせています。
スポコンで涙もろいところを鑑みると、スクールウォーズの滝沢賢治先生っぽい人かもですね。
「何しろこんな名字だから」
章男社長は、長らく人との微妙な距離感がコンプレックスだったそうです。なんてったって、日本を代表する企業の御曹司です。本人が意識していなくても、周りは自然と気を使ってしまいます。
学校では友人や先生から、いつも特別視されていました。一人の人間としてではなく、「豊田家の人間」として扱われるのです。それはそれは、寂しかったに違いありません。
また、トヨタ自動車に入社後も、御曹司ゆえに、居場所がなかったそうです。いつも何をするにも「お手並み拝見」という目で見られていました。父親であり社長でもある章一郎さん(現会長)からは、「お前のような奴を部下に持ちたいものはいない」と、常にプレッシャーをかけられいました。実際に、何度も退職を考えたことがあるそうです。
「こんな」と表現しているあたり、相当なコンプレックスを感じてきたと推測できます。常に、豊田家を意識させられ、一人の人間として扱ってもらえない生活は、人間不信に陥ったこともあるでしょう。この言葉一つとってみても、なんとも複雑なおもいの中で、人生を過ごしてきたことがわかります。
44歳の若さでトヨタ自動車の取締役に就任したとき、章男さんに一つの転機が訪れます。それはトヨタのテストドライバーを率いる成瀬弘さんとの出会いです。
「こっちは命がけなんだ。運転のことをわからない人に車のことをああだ、こうだ言われたくはない」
章男さんへの厳しい叱責を繰り返します。テストドライバーとは、開発車両の性能評価などを通してエンジニアとともにクルマ造りを担う職人です。取締役だろうが、御曹司だろうが全く関係ありません。
普通だったら激怒してもおかしくない状況ですが、章男さんは違いました。逆に、正直に意見してくれる成瀬さんに信頼をよせるようになったのです。
それ以来、趣味のゴルフを控え、成瀬さんの下で運転の基礎技術を学ぶことになりました。
その答えが「安全」でありまた「楽しい」ということを、直に現場で学んでいったのです。
「レースに出るために、走っているんじゃない。いいクルマ作りに必要な自分のセンサーに磨きをかけるためだ」
ちょうどその頃、トヨタ自動車は奥田碩社長の元、利益を追い続ける体制になっていました。いわゆる、利益優先主義です。利益を追求すことは悪くありませんが、章男さんは違ってました。エンジニアやテストドライバーと話をすることで、“バランス感覚”を研ぎ澄ましていったのです。だから、いくら周囲から止められようが、レースに出続けているのです。
章男社長には、「モリゾウ」というレーシングドライバーの顔があります。この名前は、2005年に地元の愛知で行われた愛知万博「愛・地球博」の公式キャラクター「モリゾー」をもじったものです。
初めは、自身の存在を隠すために使っていたニックネームでしたが、今ではこの「モリゾウ」という名前をとても気に入っているようです。超巨大企業のトップになることが既定路線というプレッシャーの中、「車に乗っているときはリラックスできた」と章男社長は言います。レーシングドライバー「モリゾウ」というキャラクターをまとうことで、自分自身の気持ちの整理をつけたに違いありません。
”クルマの原点”を教えた成瀬さんは、章男さんが社長に就任した翌年の2010年6月23日、ドイツで開発車を運転中に帰らぬ人となります。享年67歳でした。章男社長が、今でもハンドルを握るのは、亡き恩師への「弔い」かもしれません。
2009年6月23日、赤字にあえいでいたトヨタ自動車は、豊田章男さん(57歳)を社長とする、新経営体制を発表しました。各種マスコミで「大政奉還」と大報道されたため、覚えている方も多いのではないでしょうか。
残念ながら、満を持しての大政奉還、とではありませんでした。それもそのはず、2009年と言えば、いわゆる「リーマンショック」の真っ只中です。4月にクライスラー社(米)が、6月にはゼネラル・モーターズ社(米)が連邦破産法11条(チャプターイレブン:日本の民事再生法に相当)の適用を申請しました。世界の自動車業界にとって、2009年は激動の年となりました。
逆境下での社長就任に、「プリンスを傷つけていいのか」という声もありました。ただ、リーマンショックを乗り切るためには、創業家の持つ求心力を高める他ないとの判断に至ったようです。
しかしながら、章男社長を待ち受けていたのは、“試練”と呼ぶにはあまりに過酷なものでした。
https://www.youtube.com/watch?v=MoyVHj8MLsw
2009年8月、アメリカのカリフォルニア州で、高級車レクサスES350の4人の死亡事故で、大規模リコール問題が勃発しました。苦情の対応が後手に回ったこともあり、トヨタ自動車は厳しい批判を浴びました。章男社長は、アメリカの公聴会に召喚され、つるし上げを食らうことになります。その結果、トヨタの名声は地に落ちることになります。
章男社長がまだ、就任2ケ月目のことです。
上のYouTubeの動画を見てもわかるように、公聴会では怒涛の質問攻め。まるで、針のむしろです。トヨタバッシングの背景には、今思えば、自国の自動車会社の経営破たんの反動や、自動車メーカー保護というアメリカの国益があったように思います。
聞くに耐えない公聴会ですが、このやり取りの中に、創業家の誇りを感じさせる章男社長らしい言葉がありました。
「私は創業者の孫であり、全てのトヨタ車に私の名前がついています。私にとって車が傷つくことは、私自身が傷つくことです。」
この気持ち、創業者一族にしかわからないものだと思います。
章男社長が、非難の矢面に立ったことで、社員の意識も明らかに変わりました。最前線で戦う章男社長の姿を見て、「自社のトップとして親近感を持てるようになった」という声も上がっています。
アメリカでの壮絶なリコール問題について、後に章男社長はこのように語っています。
「米国に端を発した 大規模リコール問題で、
… バッシングが吹き荒れる中、声をあげることはできないけれども、
心の中では、トヨタを、私を応援してくれている人がたくさんいる。みんなを守ろうとしていた自分が、実は、みんなに守られていた」
章男社長は、悔しさをかみしめながらも、「この時初めてトヨタのお役に立てると思って、うれしい気持ちもあった」と語っています。
2011年3月9日、章男社長は記者会見を開き、トヨタグローバルビジョンを発表しました。大規模リコール問題の公聴会から一年後のことです。発表と同時に、経営のスピードアップを図るために、取締役を27人から11人に削減し、意思決定階層も3階層から2階層へ変更しました。
そのわずか二日後、とんでもない事態が日本を襲います。東日本大震災です。章男社長は、日本経済界のリーダーとして、復旧の先頭に立つことが求められました。
その時に、章男社長が発した号令が次の言葉です。
「現場は、上に報告しなくていい。報告のためのレポートはつくらなくていい。人命第一、地域復興が第二、第三が生産の復旧。この順番だけ頭に入れて、部長および工場長が中心になって判断してほしい」
ヒエラルキー社会そのもののトヨタの意思決定プロセスとは、明らかに反するありえない決断でした。
ちなみに、トヨタ生産方式(TPS)では、生産ラインの停止による損失は、1ケ月で数千億円規模におよびます。現場に判断が委ねられたとはいえ、決断を下すとなれば躊躇が出るものです。しかし、「責任はすべて私が取る」という章男社長の言葉は、重みが違いました。
なんせ、リコール問題で一人矢面に立った男の言葉です。現場の士気は俄然上がります。当初「日本のモノ作りは1年以上立ち直れない」と言われていましたが、見込みを大幅に上回る、驚異のペースで復興を実現させたのです。
就任早々、危機対応に明け暮れることになった章男社長。「大変つらい時期だったが、会社としての一体感、求心力が高まった時期だった」と振り返っています。
2018年、章男社長は「モビリティカンパニー」へのフルモデルチェンジを掲げました。トヨタを、単なる自動車メーカーではなく、モビリティに関わるあらゆるサービスを提供する、モビリティカンパニーへ転換するという壮大なビジョンです。
このようなビジョンを掲げたのには、大きく二つの危機意識からです。
トップ自らが、トヨタの事業を自動車という「モノ」を販売するのではなく、自動車による「移動サービス」を提供する環境を整えていくという明確な意思表示をしました。そうしなければ、長期的に自動車業界で主導権を発揮できないと判断したのです。
ソフトバンクとの提携も、この一環です。新会社のMONETの社名には、「全ての人に安心・快適なモビリティをお届けする、Mobility Networkを実現したい」という両社の想いが込められています。ソフトバンクの「情報革命で人々を幸せに」と、トヨタの「全ての人に移動の自由を」の二つのビジョンを融合し、安心・快適なモビリティ社会の実現を目指しています。それはそうと、AUはどうなっちゃうんですかね。
「100年に1度」の大変革時代に突入した自動車業界。この大きな変化を伝えていくメディアが「トヨタイムズ」です。トヨタイムズでは、今まで公開されることのなかった、トヨタのありのままの姿を伝えています。
実際にトヨタイムズを見てみると、株主総会や労使協定など、株主や社員しか知ることのできないトヨタの内側が全てオープンになっています。それにしても、ここまでやるかって感じですね。
トヨタイムズでも、リコール問題の教訓が活かされています。トヨタの中でどんな変化が起き、トップである章男社長が何を考え、何をしようとしているのか? 常日頃から自社の考えを発信するようにしたのです。
社長就任から10年。現在のトヨタ自動車を見れば、章男社長の経営手腕を疑う者はもう誰もいません。
一見、盤石な経営に見えますが、今後のトヨタのかじ取りをどうするのか。章男社長の悩みは尽きないと言います。
創業家は良くも悪くも、色眼鏡で見られてしまう宿命にあります。創業家に生まれた苦悩と葛藤、さらに、経営者としての苦闘の数々、その背景を知れば知るほど、豊田章男社長のことが好きになっちゃいますね。コンプレックスやプレッシャーを乗り越えてきた豊田章男社長には、見習うべき点が多いと思います。
これからも、章男社長の経営の”ハンドルさばき”から、目が離せません。
章男社長は、「先代がいたから今がある」と繰り返し語っています。自分は何も苦労をしていないと…。そして、いつか自分も「先代がいたから今がある」と言われたいそうです。
章男社長は、仏壇に手を合わせるとき、創業者であり祖父の喜一郎に対し、「私の体を自由にお使いください」と常に祈ります。豊田自動織機に入社するも居場所がなく、自動車部を作った喜一郎。国産自動車の開発の道筋を作りながら、その普及を見ることなく57歳の若さで亡くなった喜一郎の遺志が章男社長に宿っています。
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